知性の弾丸

きのう、瀬田なつき『あとのまつり』を見た。

 

驚くほどにのちの嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん、『PARKS パークス』を予告する内容であり、どうせこんなもの、と気恥ずかしさとともに見始めると痛い目を見る。多幸感と残酷さが同居し、時を超え、あるいは時を重ねてイメージがポップ(ロックではなく)する。

 

実際そのポップさを担うのは撮影ではなく、音であり、また音楽であり『5windows』以後の瀬田なつきと『あとのまつり』までの瀬田なつき木下美紗都の在、不在で片づけてしまいたくなるほどに本作でもそれは際立っていた。ただ、そんなに簡単な話でもないはずのマジカルな才能を今後も信じ続けて新作を待ちたい。批評家の某Kさんが「ヌーヴェルヴァーグの隔世遺伝」と思わず口走ってしまうのが当然のことであると、当時のぼくらはこの映画の魔法にかかっていた。なぜ、こんなにもさわやかに今日、ゴダールをやり直せるのかと不思議に思ったものだが、もしかしたら資質的にはドゥミの方向を向いたほうがよいのかもしれないと考えるのは無責任だろうか。

 

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今日もたくさんの人が病気になり、たくさんの人が死んだ。この数字にぼくらは驚くほどの速さで慣れてきている。このまま数字に操作されれば、ぼくらは雨上がりの蟻んこのように再び巣穴から抜け出し、目に見えるものきこえるもの触れるものすべてを消費しつくしていくであろう。

 

いつか映像や文字だけが残り、ぼくらは先にいなくなるかもしれない。そういう不安やヤケクソが文学を、あるいは宗教を次のステージへと押し上げていったのは確かだ。ただ、押し上げる主体がいなくなれば、それでお話はおしまいだ。

 

新しい歌を聴きたいだろう。それならしかるべきときに備えてしかるべき道具に弾丸をこめていなくてはならない。