スラムドッグ$ミリオネア

理由はあとで(できれば)。<追記 4月29日>

さて、駄目な映画を駄目だと書くのはいかにも芸がないが、やはり、こういうものがもてはやされるのことに対して、何かしら異議を唱えなくてはならないような気もするので一言だけ。と言ってもどこから始めていいのか・・。
伏線というものの危険性。時系列などを混乱させて、観客の先に立って物語を進めて行くやり方からは、単なる辻褄あわせという印象しか受けられない。映像は、辻褄がどう合ったかを実証するための付加物に成り下がり、主人公が、過去を語りだす度に、芸のないフラッシュバックで、辻褄があわされていく。これは、小学生に横断歩道を渡るときは、右見て、左見て、また右見てから渡りましょうと言っているようなものだ。辻褄が合うことによる安心。しかし、映画の刺激は安心とはほど遠い所にあるべきではないのか。優れた映画は人を不安にさせ、興奮させ、吃驚させる。横断歩道を渡るとき、右も左も見ないで渡ればどうなるか、あるいは右だけ見て渡ればどうなるか、あるいは渡っている子供を、傍から見ているとき、その子供の側面から猛スピードで車が突っ込んでくるが、子供はヘッドホンで音楽を聴いていて気付いていない、さあ、どうする!というのが映画ではないのか。
それから、ショットを積み重ねることについてあまりにも自覚が足りなすぎるのではなかろうか。無残に切り刻まれたフィルムの山を想うとぞっとする。建物の間を飛び超える少年たち(?)を下から撮ったショットを見て、あの素晴らしいチャールズ・バーネットの『Killer of Sheep』を思い出し、二つの作品の間の飛び越えようのない溝に思いを馳せて何とはなしに切なくなりましたよ。

これが、アカデミー賞の作品賞や監督賞に加えて、編集賞と撮影賞までも受賞してしまった事実を前にして、怒るのを通り越して、あきれるのを通り越して、笑うのを通り越して、やっぱり怒らねばならないのではないか。