羽仁進

羽仁進を2本。
『教室の子供たち』
佐藤真の本だったか、土本典昭により編集された本だったか、忘れたが、羽田澄子の講演が収録されていて、そこでこの映画のことが言及されていたのを思い出す。そこで、『教室の子供たち』の助監督(だったかな?)だった羽田氏は、この映画を撮る際、カメラを教室の端に置いて、こそこそ撮ると子供たちはかえって気にしてしまうが、教室のど真ん中に置くと、最初は興味を示すものの、すぐに厭きて、全然カメラの存在を気にしなくなるというようなことを言っていた。話の通り、カメラは主に教室の真ん中から、のびのびと子供の動きや顔をとらえていくのだが、基本的に、カメラはナレーションの主体である先生の視点を代弁している。(主観ショットというわけではない)
クロースアップの多用で、30分にも満たない映画だが、だんだんと顔と名前が一致していく。とはいえ、フレデリック・ワイズマンの作品群のように、通時的な時の流れというものがないため、何らかの解決を与えようとか、子供の成長をとらえようとかいうものでもなく、題の通り、教室の子供たちを、その多様な性質を浮き彫りにして行く、さわやかな映画。

『絵を描く子供たち』
『教室の子供たち』とはちょっと違っていて、わりあいに劇映画っぽい構造を持った映画。ゆるやかではあるが、時間が流れていて、特に二人の主人公ともいえる子供を中心に置いて語られる。この語りは、一応は図画の先生(担任?)の一人称という感じなのだが、『教室の子供たち』と比べると、どちらかというと、もっと距離が離れた、神の視点のような印象を与える。カメラは、子供の帰宅する先に待伏せし、ときには生徒の家にまであがりこむ。窓辺で外を見つめる子供のクロースアップも、演出されたような(実際は分からないが)印象を与える。さらに、主人公の二人以外は、ちょっと不自然になるくらい名前の使用が避けられている。彼等は、頭を丸刈りにされた子とか、回りくどい形容をされて主人公との差異化が図られている。作品を通して、子供たちの心理とその成長が、絵を通して語られるのだが、子供たちの声はあまり重視されず、精神分析めいた絵の解説が、何となく語る主体の全能を前提しているようで、ちょっと疑問。絵を撮ったいくつかのショットだけ、カラーフィルムが用いられている。

過去を逃れて
売りに出すので、画像チェックも兼ねて再見。冒頭の湖畔のロケーションからして素晴らしい。物語は、過去へと遡って、また戻り、現在の先へ。
ジェーン・グリアの登場シーン。つばの長い帽子にうっすらと透明感のある影がおちる。ミッチャムが言うようにまさに「月のひかり」のようだったグリアの顔を覆う影は、男二人が彼女を前にして殴り合うシーンあたりから一気にその陰影が強められていく。
ところで、彼女にまして、90分あまりの映画中、死体を4度も目撃するはめになるミッチャムが素晴らしい。冷静で、高い知性を持っていて、自分では決して手を下していないのに、身の回りでばたばたと人が死んでいくときの驚きとあきらめの間を、そのまどろんだまなざしの奇妙なニュアンスで演じきる。
最後は、ハンドルを握ったほうの優位、例えば、『天使の顔』のラストとの好対照。

過去を逃れて [DVD] FRT-258

過去を逃れて [DVD] FRT-258