THE TAKING OF PELHAM 1 2 3 etc.

Some Came Runningさんのブログ(http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20090831)で知ったのですが、来月のWOWOWがものすごい。最初の2か月945円らしいので、とりあえず2カ月だけでも加入しちゃおうかなー。番組表を見てみたら、先週Tsutayaで借りたものがたくさん放映されていて、ちょっとショック。

  • 『あの家は黒い (THE HOUSE IS BLACK) 』 フォローグ・ファッロフザード 1962/IR (22min.) |***|
  • トム・クルーズ/栄光の彼方に (ALL THE RIGHT MOVES) 』 マイケル・チャップマン 1983/US (90min.) |***| 

それでも恋するバルセロナ』以来、新作を見ていなかったので(ひどいな)、意気揚々と出掛けて、見終えた後、意気揚々と帰ってくることができた。『サブウェイ123 激突』、一部でえらく評価の高いトニー・スコット、私は『デジャヴ』も『ドミノ』も『マイ・ボディガード』も『スパイ・ゲーム』も見ていないので、完全に乗り遅れているわけで(いやあ、ひどい)、まあその分、かなりの距離を持ってこの作家の新作に臨むことができたわけだ。既に方々から傑作の呼び声が聞こえてこないわけではないが、まあ、それもなるべく忘れて、映画に身を委ねようと。タイトルバックのテンションに、おお、と思いつつもふむ、こんな調子でずっと行くのだったらちょっときついなと些か冷めた目でスクリーンを見やっていたのだが、次第次第にスクリーンを見やるなんてことはできなくなって、すっかりのめり込んでしまった。しかし、のめり込むと言っても、我を忘れてスクリーンに身投げするというでもなく、身投げする自分を傍から眺める興奮とでも言うか・・、なんでしょうね。事に依ると、久し振りに感情移入というやつをしていたのかもしれない。この映画については、後でもう少し突っ込んで書きたい。(とは言っても、今までも後で書くとか言っておきながら、全然書いてないものがたくさんあるから、これもどうだか・・。読んでくださっている方は週末などにお休みのときに暇があるようでしたら、ちょっと遡って見て下さったら、何か追加されているかもしれませんので、あくまで、お暇がありましたら、チェックしてみてください、とだけ言っておきます)

<追記 :13日>

実は『サブウェイ・パニック』を見ていないのでストーリーのオリジナリティ云々については何も言えないが、トラボルタ以外の犯人の目立たなさに驚く。恰も銃を持ってうろうろすることしかプログラミングされていないかのように、見張りに徹するトラボルタの手下たち。乗客も、非常に経済的に数人が紹介されるが、あとは名無しなだけでなく、顔なしも同然だ。デンぜル・ワシントン陣営も、紹介されるのはわずか数名、あとは機械みたいなものだ。とにかく、105分の映画で、同程度の映画内時間を語るのだから、情報量もできるだけ少なくした方がよい。しかしそんな配慮をせっせとしていたのはトニー・スコットではなく、むしろ演出家としてのトラボルタの方だったのだという、仮説を立てたい。
さて、私は困ったことにトラボルタに感情移入してしまった。映画内の人物に感情移入したのは、恐らく『二重結婚者』のエドモンド・オブライエン以来。良かれと思っているのに、皆を不幸にするオブライエンには、優柔不断でついつい、いつも二兎を追ってしまいたくなる性質の私としては深く共感してしまったのであるが、今回のトラボルタは、電車と、教会(告解室)を持ち出して、一所懸命に、さあアメリカ映画を作りましょう!とやっているようで、感動的なのだ(実際、役柄の中でアメリカ映画的な事件を演出している。上述した「身投げする自分を傍から眺める興奮」とは他でもないトラボルタの心境だったのである)。つまりこれ、トラボルタのシーンに限ってはトニー・スコットというよりも、トラボルタが、映画を作っているみたいに思えてくるのだ。運転室を告解室に例えるトラボルタの、その「告解室」という言葉があまりに奇異に、不自然に響いたからかもしれない。その人物造形の荒々しさというか、対する、ワシントンがしっかりスコットに演出されているように見えるのに対して、トラボルタったらもう。トラボルタが、「ヒーロー」のワシントンにこだわるのは映画内監督を任されたからなのだ。そう、実はこの映画、二人の監督に演出されていたのだ。だから、エンディングも二つある。トラボルタとワシントンのそれぞれの最後。市長や妻のこなれた演出とセリフは全部トニー・スコット(と脚本のブライアン・ヘルゲランド)の手に依る。つまり、この映画、二人の演出家と結婚してしまった二重結婚者なのだ。さらにはトラボルタもまた、映画と二重に関わる二重結婚者であり、そしてわたしはそんな二重結婚者にとことん弱いと、そういうことです。