ミネリ、イメージの臨界

今日もミネリ大回転。
『長い長い〜』では、『踊る海賊』や『花嫁の父』で妄想や夢の形で描かれた、コメディのイメージの臨界点を軽々しく超えてしまう瞬間のミネリの過剰な過激さを確認できる。傾いたトレーラーから放り出される妻が泥を被る描写なんて、可笑しさを通り越して、ちょっとぞっとする。トレーラーをバックしすぎて家を破壊してしまうシーンや、揺れるトレーラーの中で料理をする妻が、料理まみれになるところなど、ローレル&ハーディやジェリー・ルイスを思わせるが、そういう過剰な世界へとさっと足を踏み入れるや否や、果てしなくイメージが膨らんでいく。そしていざ、これ以上行くとコメディじゃなくなるぞというところに差しかかるや、さっとフェードかオーヴァーラップが掛ってシーンが切り替わる。そしてまた同じことが繰り返される、ある意味地獄のような世界。
ヴィンセント・ミネリの映画で、カップルがその他の群衆と対峙するという主題が哀切に結晶したのが『お茶と同情』で、コメディやミュージカルといったミネリ得意のジャンルでのカップルよりもずっと厳しく、かつ複雑に周囲の無理解と対決しなくてはならない。「女のよう」と同級生から揶揄されたうえ、教師や、父親からも理解されず、その上、教師の奥さんを好きになる主人公の懊悩が、それこそ地獄のような、覚めない悪夢のようなイメージの連なりとなって展開する。時々、奥さんと甘味な時間を過ごすからこそ一層その苦しみが増し、遂にその臨界を超えて、爆発した主人公の行動の過激さ。
前年の『蜘蛛の巣』でも、似たように、若者が精神の許容の限界を超えたとき、決定的なアクションが生まれる(この若者は、『お茶と同情』で主役を演じたジョン・カー)。ミネリはいつも何らかの臨界点を設定すると同時にそれを超えてしまう契機となるような記号を周到に用意しているように思える(カーテンや、「女おとこ」と言ったセリフ)
『いそしぎ』は、エリザベス・テイラー自身が過剰なイメージとして、君臨する。彼女の支配するこの映画は、だから始終覚めやらぬ夢の装いを纏う。この夢から逃れるためには、テイラーから逃れるほかない。

※『蜘蛛の巣』の主要キャスト5人がこれまた過剰なほどすごい。リチャード・ウィドマークローレン・バコールシャルル・ボワイエグロリア・グレアムリリアン・ギッシュという5人。


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