秋津温泉

新宿にビデオを返しに行く。そして荻窪へ。何を隠そう私はボードレールニーチェバタイユを片手に礼拝に出席する、金田くんの言葉を借りれば「健康優良不良」クリスチャンなのだ。教会は荻窪にあります。で、古本屋をぶらぶらして、東中野へ。久々の映画館復帰は岡田茉莉子さんの回顧上映。よかった、何とか一度は足を運べた。前から三列目に席を見つけ着座するとまもなく満員。一年半ぶりの『秋津温泉』を堪能。そして岡田茉莉子さんのトーク。素晴らしい。わりとぼーっとする。会場の吉田監督に「喜重さん」と呼び掛ける可愛い場面も。タイムテーブルにはトークショーとだけ書いてあったが、サイン会。きっとやってくれるだろうと思って、秘かにバッグに忍ばせていた「女優 岡田茉莉子」を取り出し、並ぶ。握手、ありがとうございましたとだけ、何とか言う、ありがとうございましたと、微笑んで下さる。どきどきする。横の喜重氏にも一礼。お辞儀し返してくれる、恐縮しながら退場。良かった、ああ良かった。

  • 再見 『秋津温泉』 吉田喜重 1962/JP/112min |****

ちっともまとまらない。


ただひたすら押し寄せる波のように次々と、いや次へ次へと、人生を消費する岡田茉莉子の走行。

死の予感と、死後。戦争の終わりの涙が長門に生を与えて、後はひたすら、走る、笑う泣く怒る寝るの嵐で長門を生かして自分は生きながら死ぬ。

岡田は秋津から一歩も外に出ることなく、ほとんど幽閉されているのに対し、長門は自由に出入りする。橋。

しかし、長門に割かれたカットは限られている。東京に行ったといっても東京のエスタブリッシュメント・ショットが挟まるわけでもなし、妻との家もその周辺も薄暗く、かなり謎の空間だ。しかし、秋津は、桜が咲いているか、雪が積もっているか、いずれにせよ水はいつも流れている。とにかく輝いている。

音楽によってコンティニュイティを保っている一連のシークエンスで、岡田茉莉子は笑っている次のカットでもう眉を寄せている。普通なら矛盾とも思えるこの感情の放流を十分納得できるものとして提示してしまう、こんな芸当が出来る人が他にいるだろうか。

「奥さんはどんな人?」と聞く岡田に長門が「木綿のような人さ」と答えるところの画面手前岡田、右奥長門、画面左のガラスに二人の姿が反射しているショットの見事。

平原で赤いマフラーの岡田さんと、長門氏が新子さん、周作さんと呼びあうシーンの音楽性。ミュージカルを超えている。これほど美しい歌の場面もそうはあるまい。

廊下、縦で近づき、横移動で遠のく、変化の瞬間、その瞬間の頂点、あの凄まじい列車の別れのシーンを頂点に、メロドラマの沸点を超えてしまう。メロドラマの極北をさらに。
大体、あんな抒情の極みのような音楽に押しつぶされず、濡れるときと乾くときを演じ分け、重々しさと軽々しさをブレもなく、脈動し続けることの出来る人が他にいるか。

ふすまの向こうへの期待、恐れ、それだけ。

何を考えているか分からない、新子にしか、そうやって死んでいく、勝利かそれは?

露天風呂、背中、うなじ。背中とうなじのの多いこと。

結局、心中できないのだ。心中できなくなってしまったのだ。

血の赤、マフラーの赤、すべては宿命づけられている。伏線などという生易しいものではない。

必ず走ってしまう、嬉しい敗北の茉莉子さん。

「この手!この手があのとき抱いてくれた」しかし、唇が触れ合ってはいけなかった。

宿で逃げる岡田茉莉子、追う長門キャメラの凄さよ あれほど厳しいダンスは他にあるだろうか?オフュルスを超える。

「愛しています」の一つもない 本当に死んじゃったら良かったのよ、死んじゃいなさいよ、あのとき死ねばよかったんだわの愛。



秋津温泉 [DVD]

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女優 岡田茉莉子

女優 岡田茉莉子

実写のサザエさんちょっとだけ見る。えらく家のセットが暗い、時代背景をふんだんに取り入れているのが鬱陶しい。マスオさん、筒井道隆ってかっこ良すぎだろう。