ゼメキス

連休で実家に帰ってきた(と言っても荻窪からだが)兄がおごってくれるというので、家族(大人4人)で『クリスマスキャロル』を見に行く。しかし、おごってもらうことの引け目から、自分の希望をあまり主張できず、兄の希望の字幕、2Dで見ることに。3Dの字幕が少ないという事態は本当に忌々しい。山寺さんの吹き替えが悪いとは思わないが、ジム・キャリーの一人七役の声(観終わった後知ったんだけど)を3Dで楽しむことを選択する自由くらい欲しい(女性解放運動の闘士が参政権を求めるほどに)。『アバター』とティム・バートンの『アリス』がそんなだったらどうしようと気が気ではない。

3Dで見ていないので、実際その映像的成果について何とも言えないんだが、これは紛れもないゼメキスの映画であると思わせると同時に、いい意味でこれはゼメキスの到達点ではないとも思わせてくれる。『ベオウルフ』は、そこで繰り広げられている内容のしょうもなさに拘わらず、3D体験に心底わくわくできたわけだが、『クリスマス・キャロル』は更に、その感が強い。
事実、原作の一般的な知名度は『ベオウルフ』を遥かに凌ぐわけだし、原作を読んでいずとも誰もが、何らかの映像化作品を一度は見ているのではないだろうか―ということで、説話そのものから解放されて、視覚の実験を思う存分推し進めた(走る馬車の車輪をキャメラがくぐるというようなショットすらある)のがこの映画なのだ―、と、言いたくなるが、そう簡単にはいかない。さらに、ディケンズのグロテスクな部分を過剰に膨らませて(ゼメキス的と言えばそう言えそうだ)、見せることの欲望に特化して作った映画だ(子供が見たらラストの押し売り的感動より、よほど霊のグラフィックのほうが印象に残るだろうと思う。特に「過去の霊」がいい感じ。)―と言いたくもなる。しかし、それだけでもない。ゼメキスは、見せる欲望だけでなく、見ることの欲望で映画を作ることのできる人であるはずなのだ(*1)。「見たい」というのが、彼が作ってきた多くの映画(特に時間をテーマとする映画群/『バック・トゥ・ザ・フューチャー』然り、『キャスト・アウェイ』然り、『フォレスト・ガンプ』然り)を動かす原動力ではなかったか。さらに、見たいと見せたいの欲望が結合して、作られた映画(『ロジャーラビット』、『コンタクト』)これらの映画群のひとつの到達点としてのモーション・キャプチャ(パフォーマンス・キャプチャー)による近年の3作。ところが、見たい見せたいがはたして幸福な結婚を果たせたのだろうかというのが、やはり謎として残る。監督の見たい見せたい映画、主題としての見たい、見せたい映画というのはつまり、そのまま登場人物の欲望にも直結するわけだが、その見たい見せたい欲望を持った主人公というのが、今回はどうも不在のようなのだ。三つの霊は専らスクルージおじさんに彼の悲しい過去なり貧しい未来なりを見せたいだけで、自分は見たいとも思っていない。それどころかスクルージに至っては、そんなもの何一つ見たくなんかないから、当然もう見せないでくれと、懇願する。こういうキャラクターは、はたしてゼメキス的主人公と言えるだろうか。

スクルージは見たくない。見たくないのに見ることを強いられる。そして霊が連れていく影の世界では、相手からも彼の姿が見えない。ここに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の見たい見られたい、見ることができる、見られることもできるというハイテンションな快楽はない。ところがそんなゼメキスの映画にも既にこのスクルージに酷似した主人公が存在する。それは『コンタクト』のジョディ・フォスターだ。彼女は見たい人でもあり、さらに聴きたい人でもあるわけだから、それでは、全く逆ではないかと思うわけだが、見たい人とは、また懐疑の人でもある(彼女は実証主義の不可知論者)。その懐疑が、実証不可能(だった)なものを見ることによって、見せたい人、聴かせたい人に変化する(させられる)というのが『コンタクト』のジョディ・フォスターなのだ。

見たくない老人に見たくないものを強制的に見せる拷問を3Dで見せるゼメキスの真意は、この変化、人を180度回転させる可能性が、映画という、観客にとっての外部の力によってもたらされると信じている映画人としての決意表明ではなかったか。目をおおうための貨幣を、死んだ同僚の目からはずしてポケットに入れるスクルージは無論、死者の目を見たいからそうするのではない。彼には死者の目など見えていなかったのであって、見えていたのは貨幣だけだ。だからこそ、その近視眼を矯正するための霊たちの強行が、スクルージをして、空から見る雪で覆われたロンドンのビューを美しいと呟かせるまでに変化させる、スクルージの目が開けていく過程としての場面は感動的なのだ。目の前に広がる景色を見て、美しいと呟いたゼメキスの主人公は、このスクルージを演じるジム・キャリーを除いては、時空の旅の果て(*2)に銀河を眼前にすることとなり、思わず美しい・・と呟いたジョディ・フォスターの他にいたろうか。
見たい見せたいの主人公が「不在のよう」と曖昧に先述したが、やはりスクルージも最期には見たい見せたいの人に変貌しているから、この映画においても見たい見せたいの主人公は、「不在のよう」に見えて不在ではないのだ。
ゼメキスが、見せられることによって物事が見えてくるということがある、と信じているのなら、やはり彼はなんとしても見せたい人なのだろうか。しかし、見せたいゼメキスの次回作をこんなにも見たい私は、彼の次回作と幸福な結婚が出来そうな気がする。(*3)

*1
私が今まで見たゼメキスの映画では(白状すれば、そう多く見たわけでもないのだが)、人が落下しそうになる、あるいは落下するという状況が頻出するのに、それで死ぬということはない(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の時計台や、2でのビルの屋上、3では首つり状態からむしろ落下して助かる。『コンタクト』の落下する装置、『キャスト・アウェイ』で飛行機が落ちてもトム・ハンクスは死なない、『ロジャー・ラビット』落ちてもアニメの世界だから死なない等等)。だから文字通りの宙づり状態や、落下を待つ時間は、落下したらどうしようえらいこっちゃというサスペンスとしての機能より、落下したらどうなるんかしらわくわくという期待としての機能が強い。ここに、彼の「見たい」欲望が垣間見える。また、ゼメキスの映画に所謂ラスト・ミニッツ・レスキューといった、グリフィス的「救出」が上手く機能する場合は少ない(『バック3』は例外)。救出できないし、されもしない。急場に立つ人間は自力でどうにかするか、何も分からぬままどうにかなるかして、気付いたら既にどうにかなってしまっている。これが、落下しても死なないという主題と結びつくことが多いのだが、やはり『クリスマス・キャロル』でもそのような場面を見ることが出来る。

*2
ジョディ・フォスタージム・キャリーの旅の形も似ている。ゼメキスの乗り物が一風変わっているのは周知の事実だが、今回の乗り物はヒッチコックの『下宿人』を思わせるような床を持った乗り物で、これがなかなか素晴らしい。ぜひ3Dで見て見たい場面だ。(字幕2DはDVDで見られるんだからやっぱりもう少し説得するんだったなあ)『コンタクト』のワームホール装置もまたこんなような乗りものだった。自分では動かずに、時空を「飛び」超えるという主題を実現する装置でもある。(ゼメキスって追跡場面を撮るのはどうもいまいちなのではなかろうか、今作もスクルージが自分の足で走って逃げるという場面があったが、あんまりうまいとは思えない)

*3
脚本をゼメキスが担当している。次はいよいよこの技術でオリジナル作品で語ってほしい。