インビクタス

イーストウッドの新作は南アフリカラグビー代表の物語だからイーストウッドの好きなスポーツはラグビーなのだといいたいところだが、『男性の好きなスポーツ』で、この映画が釣りの話であるに拘わらず、釣るのはもっぱら女性の方で、釣られるのは男性ばかりで、結局男性の好きなスポーツはなにかというと、それは女の子であります、ということのように、イーストウッドの好きなスポーツは実は全然ラグビーではない。

 イーストウッドの映画を語る際、しばしば、幽霊やら、神やら、恩寵やらといったキーワードが取り沙汰されるけれど、そして、確かにこの『インビクタス』においても、イーストウッドはついに肉体を捨てて音楽になってしまったんだとか、頻繁に挿入される歌詞入りの音楽(言葉/ロゴス=神)は地の底から聞こえてくるんだとか、あるいは逆に天国から聞こえてくるんだとか、ラグビーのワールドカップのテレビ中継のため街から人が消え、テレビから聞こえてくる試合の国歌とスタジアムの熱気だけが聞こえてくる街がゴーストタウンのように見えるだとか、あるいは歓喜で満たされたそこはむしろ天国のようだとかいうことはできると思う。モーガン・フリーマンが演じるネルソン・マンデラの27年過ごした刑務所で、マット・デイモンがそこにマンデラの不屈(インビクタス)の精神を見出した際の、そこに宿るマンデラの記憶が幽霊に見えるとかそういうこともいえる。でも、そんな深刻で物々しいことを考えなくとも、ことはもっとうきうきと、わくわくとあるいはさくさくと進行する。


 ひとつのカメラのアクションが、ひとつの道を隔てた隣通しでラグビーをする白人とサッカーをする黒人をさっと見せてその国の状況を見せてしまったあと、ひとりの老いた黒人が車に乗ってその道を過ぎていく。白人の少年があれは誰なのと聞くと、あれはマンデラだ、南アフリカの先が思いやられる、と大人が言う。これで導入が完了してしまうわけだが、この語りの簡潔さたるや。国のラグビー代表チームのキャプテンを務めるマット・デイモンの存在もこの簡潔さでさりげなく配置されていく。1994年、マンデラが大統領に就任した日から始まり、一年後に終わる物語はこのように、過ぎてしまった出来事を友人と語り合うように、あるいは、もともと濃すぎる味のスープを熱湯で薄めて、客に出したかのように、いくつかの主要な人物とあまり重要でない周辺の人物(たち)の1年の人生が極めて味気なく素描されていく。しかしこのスケッチの素晴らしさと的確さ。
マンデラは朝の散歩をする。護衛が二人ついていくと、いかにもという感じで、荒々しい運転の車が後方から迫る、執拗にカットを費やしてサスペンスを作るが、結局はその車は新聞屋さんで、銃撃ではなく新聞を置いてさっさといってしまう。勿体ぶった盛り上げと、気持ちの良い肩すかし。そして、銃撃の代わりに繰り広げられるのは新聞の見出し、つまり言葉。グラン・トリノで銃を捨てたイーストウッドの最新作に、銃は姿を見せない。ただ、新聞とテレビと、国旗やユニフォーム、肌の色などのさまざまなメディア、記号への目配せが散りばめられている。到達すべき暴力のない暴力映画、爆発のないアクション映画。それなのに面白い、本当に面白い。


主役は一応マンデララグビーチームのキャプテン、フランソワ役のマット・デイモンだが、この二人もさることながら、護衛の人々や、周辺のひとびとの描写が素敵な映画でもある。黒人と白人の護衛官が、マンデラの意向(『人間ピラミッド』のジャン・ルーシュみたいに黒人と白人を同じ空間に置いてみようという試み)で一緒に働かなくてはならなくなり、いやいや仕事をともにしていくのだが、彼らは、ホークスの『教授と美女』の教授たちか、プレストン・スタージェスの『凱旋の英雄万歳』の軍人たちのように愛嬌がある。狭い部屋に閉じこもって、マンデラを守る作戦会議をする(なんであんなに狭い部屋なのか、それはスタージェスの映画のようにフレームを人がひしめき合って満たすためだろう)。護衛の計画をしても、そもそも彼らは密集する圧倒的な群衆の渦のまえに徹底的に無力なのだから(スタジアムに迫る飛行機のギャグに顕著。腹に代表ラグビーチームのボカという愛称を書いてあるのを見せて飛び去っていくというとんでもないギャグに思わず、おちゃめかっ!と突っ込みたくなるが、9.11の記憶をパロディのようにして使うことができてしまうイーストウッドは恐るべき老人だ)、こうなったらもう試合でも観るしかない、と黒も白も男も女もスポーツを見て楽しむという大きなまなざしでついに一致する。

ところで、映画を通して、早いカッティング、執拗な切り返しが使用されて、ここまでやると、『アワーミュージック』の煉獄篇でのゴダールの講義を思わせないでもない。実際、ラストの試合シーンなど、映像メディアに対する批評としか思えないような時間の引き延ばし、超スローモーション、おまけに音まで引き延ばす。時間が恐ろしく遅く進行するこの空間で問題になっているのはもはやラグビーの試合ではない。ゴダールが頭をかすめる、このラストで問題になっているのはまさしく他でもない映画である。イーストウッドは、まさに、映画というスポーツを繰り広げているのであり、つまるところイーストウッドの好きなスポーツは映画であり、この映画に喜んで見入ってしまった観客の好きなスポーツもまた映画であるという当たり前の答えが待っていた。
今から次の試合が待ち遠しい。