Reminiscences of a Journey to Lithuania , The Window

大好きな映画。先日ビデオで見たばかりだけど、フィルムで見たかったので。

山形に疎開していたことにしていましたが、ええい、てやんでいと一念発起し、はるばる京橋に出かけて行きました。大島渚以来のフィルムセンターかな。ロビーで軍隊のように並ばされるのに毎度ながら辟易。
大島渚のときは、『ユンボギの日記』のとき横の人からいびきが聞こえたかと思いきや、前の人、後ろの人と、バタバタと力尽きていったのでガスでも撒かれたんじゃなかろうかと思ったものですが、今回はいびきは聞こえなかったのだけど、前の日3時間睡眠ということもあって、残念なことに私が寝てしまった(普段10時間寝ている人にはつらいのです)。そもそも半分『窓』見たさで行ったということもあり、むしろ、40分くらい寝てもいいやという気持ちで行ったので、第2部「100の瞬き」の50くらいのところで3分くらい寝ただけで済んだのだから上出来とも言える。大画面で見るには結構めまいを起こしそうになりますが、終始楽しく見ました。あの井戸はしかし本当に素晴らしいなあ。

しかし、会場が妙にピリピリしていたのが心底残念。表情が暗いよ。

  • 『窓 (The Window) 』 ユリュス・ジス 1989/GE(グルジア)/18min |b−

最初と最後のショット、特に最初の、すうっと音もなくホームに到着する列車の滑走は美しいと思いました。ジスはメカスの弟子ということだけど、この映画はメカス的というよりも、むしろ十字架を斧で切り崩すイメージを反復したりだとか、あるショットで列車の走る後景から、画面手前にある墓石に刻まれたマリア像にわざわざフォーカスを合わせたりだとかいうふうに、ジスのこの映画での手つきは、何かを指し示さんとする記号をふんだんに織り混ぜて、祖母の「今」と、はっきり明かされないものの、恐らくは息子の死と列車とに纏わる祖母の「記憶」をつなげる詩的なイメージの総体を積み上げていくというスタイルを取る。メカスが井戸そのもの、あるいはポテトのパンケーキそのもの、あるいは農作業のための大きな鎌そのもの等々の物質のそのあるがままの物質性に信頼を託して、その物質の力(記憶がその表面に宿ってしまうような力)を見出させる被写体に向けて次々にカメラを向けて、それらのショットをずんずん積んでいくような手法と比べると、どちらからというとあまり物質の力というものを信じきっていないなという印象は受ける。それから音の操作で映画にリズムを加えていく手法にメカスの影響が感じられるが、その手法の推し進め方がメカスより野心的に思える。メカスの『リトアニア〜』の第一部では、1950年頃に撮っていた映像に対してメカスは伴奏音楽とナレーションを後から付け加えることによって「今」と「かつて」とののっぴきならない時間の隔たりが、(些かノスタルジックに)、否応なしに強調されていて、しかもそれがまるで一冊の詩集のようなまとまりを結果的に見せるのだけど、ジスの音のずらし方はもっとドライで、したたかで、最初から詩を志向しているというやらしさ(ソクーロフに時々見られるような、またはアボルファズル・ジャリリとか)を感じさせる。特に最初のショットでは削除されていた列車の走行音が繰り返し繰り返しフィルムを覆うのは、恐らくは祖母の死んだ息子(映画中唯一の台詞に仄めかされる)にまつわる記憶と関係しているのではないかと思うけど、些か映画の詩的リズムのために道具として奉仕させすぎと思える。また、例えばあるシーンで、ジスの祖母の身体に光が差してドアが開いたのが分かるんだけど、そのあとに、しっかり切り返して、子供が入ってくるところを撮るとかっていうところに演出が入っていたり、何か祖母の記憶や現在の生活といったものの方ではなく、むしろジス自身の方へ映画の詩的構成というものを持っていこうとしているようで当時19歳の監督の意図が釈然としない。何か色々まとまりのないことを書いてしまったが、身も蓋もない言い方で無理にまとめるならば、つまり愛が感じられないということです。

次の上映は6/3(木) 3:00pm〜 →http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2010-6/kaisetsu_20.html