(9/13 更新)

いくつかのイメージが羅列されるプロローグは、まるでこの映画をシネマコンプレックスでかかるアメリカ映画を見るようにして見てはいけないと要請しているかのようだ。そして、最初のシークエンスでその要請は、直ちに理解される。無味乾燥なアパルトマン(?)でマネキンのように不動の姿勢を保つ女(オルガ・ジョルジュ=ピコ)にもうひとりの女(アニセー・アルヴィナ)が服を着せてみたり、ベッドに横たわる女に赤い絵の具を塗ったりしている。部屋にはなぜか自転車が置かれてある。女の片方の手はベッドにくくりつけられている。そうしている間に、アメリカ映画のようなカットバックがあって車が猛スピードでどこかに向けて急いでいるのが示される。絵の具を塗っていた方の女が画面を向いてわざらしく「ああ!」と短い叫びをあげると、まるでそれがスイッチででもあるかのように、カメラはアパルトマンの外に出て、先ほどの車が女のいる建物の外部らしき壁の傍らに到着する。車で駆けつけた(らしい)男(ジャン=ルイ・トランティニャン)はどうも刑事のようだ。彼が到着すると、最初の遊戯の結果だろうか、アニセーのするなりになっていた女は胸にハサミをつきたてられて本当に死んでいる(ように見える)。状況からしてアニセーがいかにも怪しいが、警官は怪しさよりも妖しさに魅せられているようだ。容疑者として尋問されるアニセーだが、怪しさは妖しさに横滑りして一向に要領を得ない。女は次々と登場する名ばかりの権力者たちの目の中に触手を伸ばして、内側から、映像の、言葉の、論理の「意味」を掠め取ってゆく。こうして女に論理を掠め取られたこのフィルムは、ばらばらに解体されることによって、自らの身をもって、映画というものが「不確か」なものばかりから成り立っていることを証明しているかのようだ。と、同時に、女優が裸になることによる画面のファシズムをもこの映画は自ら露呈する。裸には抗えないのである。