研究者の夫とその妻との二人の人間が、きっとこの部屋から決して出ることはないだろうと思わせるに十分な壁に囲まれて(そして彼らは結局一歩も外には出ない)、息の詰まるような密室劇を演じる。二人の人間の物語であると同時に、二人に深く関わって死んだひとりの死人の物語であり、その死人と二人とを結ぶさまざまなメディアと記憶、言葉によってもたらされる「情報」の映画でもある。電話やラジオ、手紙、銃といった物質的媒体=メディアの暴力的な介入は、アルドリッチの『悪徳』で決定的な役割を演じたあの部屋の中央に居を定めた電話を思わせる。次々にもたらされる新情報に、二人は、一喜一憂し、狼狽し、奇声を発し、見ていて嫌気がさすほどに、憎み愛し合う。映画を見るということが、ショットの果てしない連続と、被写体の身体に用意される未知との不断の遭遇と、個人的(または集団的)に想起される記憶との絶えざる再会とで成り立っていることをドライヤーは、自ら失敗作と吐き捨てる映画ででも容赦なく教えてくれる。