羽仁進!

 友人の結婚式の招待を蹴って映画美学校の「世界のドキュメンタリー」講座へ。罪悪感からか、今朝、その結婚式の夢を見た。どういうわけか式場の教会の床に、誰かが持ってきた「硫黄島の砂」を敷きつめて、さあこれで安心だ、よかったね、そうだねとか皆で言う夢。夢の論理はすごいなあ、たぶんイーストウッドの新作『グラン・トリノ』への期待と、結婚式を断った不安が渾然一体になったのだと思う。

 そんな夢を見ていたら寝坊したので、見る予定だったロバート・クレイマーの『マイルストーンズ』を見逃す。しかも美学校も遅刻。空いていた一番前の席で『不良少年』を見る。その後、羽仁進監督本人による素晴らしいトークというか、講義というか、お話があったのだが(聞き手は筒井武文氏)、そこで夢の話が出てきておや、と思う。夢と同じように、映画もまた、現実とは、あるいは社会的な規範や論理とは違う世界の中で独自の展開をする。世界とは違う時間が流れている。
 夢は置いといて、印象に残ったのは、子どもについての話。子どもにとっては周囲の社会よりも心の中のほうが大きくて、何かに取り組めば周りの空気など読まずに突っ走る。心の中に独自の論理があって(例えば、羽仁さんたち映画スタッフが教室にいるのはなぜか?と質問されたことがあったらしく、そのとき、羽仁さんが映画を撮っているんだと答えたら、うそだ、本当は、おじさんたちはものすごく頭が悪くって、大人なのに、学校で勉強しているのだけど、それじゃあバツが悪いから、映画を撮っているふりをしているのでしょう、と言われたらしい。)、その心の中にある動きが、何かの拍子にふわっと、内から外へと出る瞬間を、いかに撮るか、という話。予め、決められたシナリオというものを度外視するというか、凌駕するような瞬間、まさに映画がそのときそこで生成、生起する瞬間。例えば、『絵を描く子どもたち』で、ある女の子が、かけっこをしていて、見る見るうちに周りの子どもたちに抜かれてしまい、自分の実力を思い知り泣いてしまうのだが、次の図画の時間に一番遅く教室に入ってきた女の子がもう泣き止んで、さっと紙に一輪の赤い花を描いたかと思うと、その周囲をばあっと紫色に塗りたくってしまう、その瞬間、内面から溢れ出るもの。
 それから、『教室の子供たち』での俯瞰撮影をどう撮ったのかについて質問が出た。私も、先日見たときおやっと思っていたのだが、羽仁さんによると、隣の教室との壁の上の部分をくりぬいてその穴から撮ったのだそうだ!でも、そんなことしたら、生徒が気にして群がってほとんど撮れなかったようで、結局、カメラは教室の真ん中に据えることになったそうだが、その際、カメラの駆動音がすごいので布団か何かで包んだり、色々大変だったようだ。
 他にもジュールス・ダッシンの『裸の街』や、ウェルズの『市民ケーン』でのグレッグ・トーランドのパン・フォーカスの話、岩波映画初期の頃の話、武満徹のはなしなどなど、盛りだくさんだった。メモをとっていないで、記憶だけで書いているのでかなり話の内容もニュアンスが違うかもしれないけれど、受け取った印象はこんな感じでした。
 
 しかし、1928年生まれということは、ゴダールイーストウッドよりも少し上だがほぼ同世代なんだな、元気だよなあ、70〜80歳の世代。オリヴェイラにいたっては1908年生まれだもんなあ。『法隆寺』と『ブワナ・トシの歌』を見たくなった。

 
 ところで、わたしは映画美学校の生徒ではなくって、この講座だけ取っている外部の人間なのだが、今日なんかも遅れていったら受付はもう引き払っていたけど、これってわざわざ三万円払わなくってもいくらでも、もぐりこめるってことだよなあ。まあ、そんなことしたら、また変な夢に苦しめられるのでしょうが。