アッケルマン、瀬田なつき、濱口竜介など

  • 『second coming』 吉田雄一郎 2008年 (35分) |*|
  • 『アンナの物語』 山田咲 2008年 (68分) |*|
  • 『緑川の底』 吉井和之 2008年 (73分) |*|

  • 『感じぬ渇きと』  大野敦子 2008年 (11分) |*|
  • 『きつね大回転』 片桐絵梨子 2008年 (22分) |**|
  • 『みかこのブルース』 青山あゆみ 2008年 (17分) |***|
  • 再見『月夜のバニー』 矢部真弓 2009年 (30分) |**|
  • 再見『あとのまつり』 瀬田なつき 2009年 (18分) |****|
  • 『PASSION』 濱口竜介 2008年 (115分) |***|

東京藝術大学大学院映像研究科第二期性のDVDを見た後、YouTubeでアッケルマン(アケルマン)の処女作を見て、映芸シネマテークの<「桃まつり」の収穫まつり!!>に出掛ける。椅子や空調なんかの環境が悪いのは仕方ないにしても、DVD上映で、あそこまで本来の出来とはかけ離れた質感のものをスクリーンで上映していいものなのだろうか。見る機会を与えていただいたことには感謝せねばなるまいが、とにかく画質が悪い。暗い画面はほとんどつぶれていて、夜間の撮影が多い『月夜のバニー』なんて、何にも見えないで、ただグレーの画面に音がのっかているだけという場面が延々と続く。これがまた、かなり大事なシーンなわけで(妹が屋根の上であおーんと吼えているところなど)、幸いユーロスペースでやったときに見たからこんなもんじゃあないんだと私は分かっているわけだが、初めて見たという人にも、作家にもかわいそうだなと思った。『あとのまつり』で中山絵梨奈の着ている赤いパーカーも本来の色とはちょっと違っていた。しかし、この中山さんが、ラストあたりで、肩を竦め、きっと、唇を結び、鼻を啜って、指でこすってみせるところは、本当に素晴らしい。

この日は、体調もいまいちだったので、失礼とは思ったが、トークの始まるのを待たずに休憩時間中にそそくさと帰る。

他の三作にしてもきっともっと上出来な映画に違いないが、このブログでは、見た環境での極めて主観的、その場的な評価を半ば暴力的に下してしまうというのがひとつのテーマとなっているので、あえて星をつけてしまう。ただ、こんなに同時代の若い監督の映画に、私のような匿名の存在が*ひとつつけることに何の意味があるのか、それは悩みどころだ。というかこのままだとたぶん意味はない。どうしよう。

『PASSION』
非常によく出来ていて、ただただ関心してしまうのだが、なんとはなしに手放しに賞賛したくない。突然だが、この間、雨上がり決死隊のアメトークで、夢トークというのをやっていたのを見た。基本的に夢というのは語っても面白いのは当人だけなんだから、夢トークなんて本当はタブウなんだ。と、宮迫さんが冒頭でことわったものの、それが案外面白いのである。もちろん芸人のトークの技ということもあろうが、あれが面白かったのは、第三者の存在を予め設定しているからだと思う。テレビ的コミュニケーションというか、話す主体がいて、聞き手あるいはつっこみ手がいて、そしてお客さんと視聴者がいるから成り立つ笑い。大事なのは、夢の内容をしゃべっている人間とそれを聞いている人間と、その両方を見ている人間がいることを全員が意識しあっているということだと思う。だから、夢トークのスタジオ収録が終わった後に、実際、テレビ局で寝泊りをして、その夜見た夢を最後に明かしあうという、一見面白そうなおまけ企画がいまいち面白くなかったのは、夢を語る人間と、語られる人間の意識が朦朧としていたからだけではなく、お客さんがその場にいないことによって第三者への意識が決定的に欠けていたからだと思う。
で、長々とこんなことを書いたのは、トーク番組におけるお客さんの重要性を説きたかったわけではなく、映画『PASSION』が、この第三者を想定したコミュニケーションに纏わる映画だと思ったからだ。
冒頭から、見えない三角形が映画にアクションをもたらすことを示唆する。タクシーのシーンで、運転手にわざわざ二人の会話に割って入らせるのはこの三角形を映画のテーマにすることを示唆している。話す人間と聞く人間と、その両方を眺める人間。

タクシーから降りた二人は、友人の誕生日会で仲間と集う。視線とカッティングで、あっという間に顕在化する三角形。そして、本音しか言ってはいけないという本音ゲームなどによってあぶり出される新たな三角形。本音ゲームが三人で行われるのは、コミュニケーションに参加しているという意識を皆が持つとともに、一人がもう一人に対してしゃべっているときは、一応第三者でいられるというぎりぎりの緊張関係から成り立つからだ。あれが、四人だと、たぶんああいう緊張関係にはならない。三人で光るフリスビー(欲しい)を投げ合ってコミュニケーションを図るところも、同様だ。だから、後に落ちたフリスビーを拾いに行った男が、近くにいた友人にフリスビーを投げてやってもコミュニケーションは成立しない。この映画では人間が二人ではコミュニケーションが成立しないのだ。
二人と三人のあわいをたゆたう人間たちが、それでも「二人」の関係を一所懸命に築こうとする過程を慎ましく描いたこの映画は、必見と言って良い出来なのだが、何か気になるのは、演技についてではないかと、ここまでつらつら書いてきて思い当たった。映画という制度の持つ本質的な視線、観客というものに対して演技の孕む意識が統一されていないのだ。一角に、極めて抑揚のある演技をする人間がいる、その一方で、なんとも抑制の効いた、自然であるがために不自然な感じのする演技をする女の人がいる。これは何か。それぞれの演技のレベル云々を言いたいのではない。しかし、彼等はたぶん自由勝手にやっている。思うに、監督は、役者から自然な演技を引出すすために、かなりの部分、演技を役者個人個人に任せたのではないか。その結果、ある種の異様な、面白い雰囲気が出たものの、とても居心地の悪い気分にさせられることになったんだと思う。とはいえ、それは不快というわけではないし、試みとしてあって良いものだと思う。が、例えば教室で生徒と先生が暴力についての議論をする政治的なシーン(これも2者間のコミュニケーションと言って良いだろう)は、あれは、あのシーン自体が一種の暴力というか・・、何だろう、あれはきっと生徒役の子供に対しては演技指導しているような気がするし、ああいうものを見せられてもどうしていいのか、ちょっととまどう。こんな風に、絶えず、観客を映画の内部に誘い入れたり、さっと突き放したりしてとまどわせる映画。でもこのとまどいを不快と感じさせないのが、この映画の尽きせぬ魅力なのかもしれない(狙ってやっているのだったらすごい)。