• 『日本の夜と霧』 大島渚 1960/JP/107min
  • 『女たち、女たち (Femmes femmes) 』 ポール・ヴェキアリ 1974/FR/115min

出演:エレーヌ・シュルジェール、ソニア・サヴィアンジュ、ミシェル・ドライユ、リザ・ブラコニエ、ジャン=クロード・ギゲノエル・シムソロ

音楽:ロラン・ヴァンサン 撮影:ジョルジュ・ストゥルーヴェ


 ポール・ヴェキアリの映画を始めて見る。字幕なしだったので、フランス語の判らないわたしには、彼女たちの喋っている内容はさっぱりだったが、それでも面白い映画は面白い。中年というべきか、初老とまでは行かないかくらいの歳の女二人があるアパルトマンに住んでいる。『何がジェーンに起ったか?』のベティ・デイヴィスを思わせるような若作りをしているこの二人の関係は、しかし『何が〜』よりずっと奇妙で複雑に感じられる(と言ってもよく判らないんだけど)。この、「女と女のいるお部屋」で二人は、お互い同士が、そこにない鏡の役割を果たしているかのように向かい合ってお互いの唇に口紅を塗り合ったりして同じ時間を過ごしている。二人を執拗に追うカメラがある程度二人の生活を見せると、カメラの前に立ったひとりが歌い出す。急に歌い出す。女たちが歌い出すと、この部屋が急に場末のバーのような(行ったことないが)ある種のパーソナルな空間に見えてきて不思議だ。そのパーソナルな錯覚は、まるで階段やソファの位置などがアメリカのホームドラマのようでもあるこのアパルトマンの醸すホームの記号からというよりも、まるで何かの映画の映画内映画でも見ているかのような錯覚だ。ある映画の映画内で上映される映画、その映画が本来所有する時空間の外にある映画の時空間、つまるところ「実際の」観客により近いところにある(と思える)映画の時空間が親密に思えてくるような感覚。それは恐らく室内劇という設定でとりあえずアルドリッチを想起させながらその実まるで違った、リュック・ムレの『カップルの解剖学』のラストでムレが画面に登場したときのような空間のブレみたいなものをパーソナルなものと勘違いさせるような、時空間に対する距離のとり方、つまりは物語に没入させないような距離のことだが、がここにはある。
 このパーソナルな空間が、映画のある部分だけ、ホール内のように声が異様に響いたり、カメラが『狩人の夜』の地下室のシーンのように一段引いて、美術としての部屋を見せてしまうような、舞台劇を思わせるような演出に晒されることによって、ストローブ=ユイレの『今日から明日へ』を思わせなくもない空間くらいにまで観客の傍から後退して行くようだ。この親密さに更なる揺さぶりを掛けるのは、入れ替わり立ち替わり登場する何人かの訪問者よりも、また、部屋で飼っている(のか??)イグアナとかでかいコウモリ(?)などの異物よりも、壁に貼ってあるイコンのよう映画スターのスチル写真だろう(その中には主人公の女のひとりが若い頃の写真も貼ってある)。映画の初めから最後まで、事あるごとにそのイコンが大写しになっては女たちを凝視する(初めから終わりまでというのは文字通り、映画のオープニングからエンディングまでだ)。

 時折歌いだしたりするからだろうか(それとも台詞を理解できないからだろうか)、途中まではそれでもあまり陰惨な雰囲気のない映画だったのが、部屋の窓から辺り一面を埋め尽くす墓地が垣間見えるときから、イコンと墓地の挟み撃ちにあって、過去と未来のふたつの死の中に埋没させられる女たちの周囲に腐臭が漂ってくると、彼女らの口から直接宣言される「ハッピー・エンド」という言葉を経て、映画は辿り着かなくてはならないラストに向けて邁進していく。


 

※女たち(彼女たちはアル中らしい)がどうも困窮して、食べるものにも困って、道路に繰り出すところがあるが、このシーンで「道路と女」を巡る映画史がまた一つ自分の中で広がった。


※向き合って野菜を切りながら会話をする長いショットがあるが、これはアッケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン』を想起させて興味深い。