The Pilgrim etc.

ボーゼージ自ら演じる黒いシャツを着たピルグリムが騾馬を連れてやって来る。酒場で牧場主(?)に職を世話してもらえることになるが、酒をおごってもらうのを断り、ひとりで自前のビンを呷る。寝るときは騾馬の首を枕に野宿し、やくざ者に因縁をつけられたら、容赦なく殴り飛ばす。怒りを買ってナイフで斬りかかってこられたら、すかさず反撃して返り討ちにあわす。騒然となる酒場を後にして、一人陽だまりで物憂げに煙草をふかす。この暗さは何なんだろうか。
「西部を見たい」と言って、スタージェスの『サリヴァンの旅』の映画監督みたくロマンチックな好奇心を働かしてやって来た世間知らずの娘が、いかにも「西部的」なこの事件を聞きつけて、「ナイフでやっつけられた男のところに案内して」と、当の犯人に頼むと、さすらいのボーゼージは、何事もなかったかのように、娘を連れて酒場に舞い戻り、被害者の傍らで寝ずの看病をしてやる。このことがきっかけで娘と仲睦まじくなったボーゼージは、映画始まって以来、(唐突に)始めてと笑顔を見せる。そのとき最早、彼は喪服のような黒いシャツは着ておらず、真っ白なシャツに身を包んでいる。ところが、いざ愛の告白をせんとすると、娘は、「あたし、来月結婚するのよ」と言い放つ。何なんだ、この冷たさは。結局、ピルグリムはそれらしく、またさすらって行きましたと、映画は唐突に終わる。短編映画の恐ろしさ。

ちなみにチャップリンの『移民は』この映画の一年後に制作されている。

あるどこかの陽光眩しい町にある、ある程度立派な美術館の、その一番目立たないところに、恐らくそのあまりの清廉な美しさのために、ぽつねんと展示されている、色の褪せた絵画。そういうものがあるとしたらきっとそれはこの映画の、クラブで働くことを強いられている娘の、そのあまりに清楚でしかもどこまでも絶望的なそのクロースアップに似ているに違いない。このさりげない細部の暗さ。

その娘と、列車から放りだされてやってきた、これまたボーゼージ自らが演じる放浪者=侵入者と、労働を強いた金鉱掘りの父親の三人は、天衣無縫なめぐりあい、殴り合いを経て、親密な三角形を形作るに至るが、ボーゼージの父親による突然の手紙が告げる帰還命令によって、その仲は裂かれんとする。まるで兵隊にでもとられたかのようにして、別れを惜しみ、放浪者を運ぶ列車を見つめる二人。見つめ返す放浪者を背後から縦構図でとらえるカメラが、彼の視線ではなく背中をとらえる。

ラストの縦構図はチャップリンの好むラストとは逆に、列車に乗って去る男の後ろ姿が据えられる。画面手前に向かって走る列車。とどまった者たちが、画面後方に、さーっと遠ざかってゆく。この放浪紳士の高貴なところは、放蕩息子の帰還を良しとせず、放蕩をどこまでも続ける意志を背中に纏っているところであり、それはやはりチャップリンの後ろ姿とそう遠くないところにあるように見えて、幾分、ボーゼージ独特のと思われる、「暗さ」を身に纏っているように見えなくない。それは彼が列車から飛び降りて幸福そうに走り出しても変わらない。

  • 『恋恋風塵(れんれんふうじん)(戀戀風塵) 』 侯孝賢 1986/TW/109min |a+

なんと、前の映画の続きでも見ているかのように、列車がトンネルを抜けるところから始まる。4つばかしの美しいショットを経て、滑るようにして駅に到着する列車。田舎。

またしても手紙の暴力。

三日続けて贈り物の時計を見てしまった。