R.I.P. Philip Seymour Hoffman (July 23, 1967 - February 2, 2014)

彼をとにかくはやく、手っ取り早く追悼するんだったらポール・トーマス・アンダーソンの作品群をどんと持ってくるだけでよかったのでしょう。ただ、私は急いでもいないし、彼にしてみたところで、これ以上予定帳を文字で埋め尽くすことも叶わなくなってしまったわけだから、だからあえてゆっくりじっくり思い出してみることを自分に許すならば、私のなかでフィリップ・シーモア・ホフマンはまず少年の頃に見た『ツイスター』(96')の人であったという記憶、その映画を私はNYのロングアイランドで見たはずで、シネコンで見たかビデオで見たかわからないし、夏の夕方だったような気もするし、春か秋の涼しい風が家の表玄関から裏玄関へと吹き抜けていたようなそういう気持ちの良い季節だったかもしれない。吹き抜ける風に不気味さを感じつつ竜巻を見て、空を見上げてはいつこのうちに竜巻がやってくるだろうかと空想していたころだったかもしれない。

彼はNYの一室で倒れたわけだから、そう考えるとあの場所、時間はひとまず置いといて、あの場所で私は彼にもっとも近づいたかもしれないんだなって思う。もしかしたらすぐそこで同じ映画を見ていたかもしれない。ツイスターで竜巻調査の別班の部隊のトラックを運転する男に向かって"loser!loser!"と揶揄する彼のにやけた顔。この顔が声が頭から離れない。こうして彼はこれ以来どこかで見たことのある顔となって私の脳に住みついていたみたいで、幾本もの映画で彼にまたであったときもどこかで見た彼がまたなにか変な声を出したりキスをして嫌われたり自分自身が傷ついてしまったり、あるいは逆に誰かほかのひとを慰めてやったりしている。

そんなどこかで見た顔が、圧倒的にフィリップ・シーモア・ホフマンになってしまったのはいつのことだったんだろうか。

もう覚えていない。いつ頃からか彼は偉大になってしまった。『カポーティ』(05')という映画を私はまだ見ていないけどきっとその頃だろう。それで『ザ・マスター』(2012)。どこかで見た顔がマスターになっていた。これは本当に不思議な感覚で、大工の息子だったはずのヨセフんところのせがれが何やら弟子を12人も連れてナザレに帰ってきたらしいというようなエピソードの思い出されるようなときに感じる、うすのろな不安、亡霊、そういう存在になって帰ってきたマスター。そういう存在になって帰ったマスターが死んでしまった。十字架につけられたのでもなければ、鞭で打たれたわけでもない。ただ、自室で死んでしまったということだ。一本の監督作を遺してまた一人映画の才をありあました才能が逝ってしまって二度と帰ってこないらしい。