引き裂かれたものの声

教会へ。マタイ13:44〜52から天国のメッセージ。まったく響かず。こんなペーペーにシラケた顔して最前列とかに座られたら牧師もたまらんでしょう。大変な職業だよまったく。
でも賛美は好きです。今日の礼拝で選曲された聖歌は、小学生の頃によく歌っていて、恐らく世界中で歌われている有名な曲で、くりかえしのところにある「やさしい主(しゅ)の手にすべてをまかせて旅ができるとは何たる恵みでしょう」って歌詞がそのほんわか優しげなメロディと相まって、自分の少年時代(アメリカの風景)を―まるで『ジャージーボーイズ』のラスト、歌が、曲が、そして声が時の重力を軽やかに無化して、かつてのうるわしき日々が、まさに同時にその場所に出現する奇跡のような瞬間を共有させてくれたように―かつての子供である幼い自分の生きた場所を連れてきてそこで歌わせ、その頃から今に至る苦悩と孤独と空虚をすべて少なくとも一時的に洗い流してくれるのです。
同時に、当時懐いていたこの歌への理解―子供たちのこれからの人生に対する神の祝福を賛美する歌という理解が、今や死んでしまった人の旅路をすべて神に委ね、残されたわれわれは安心していられるのだ、あるいはやがて死にゆく私も安らかにいればいいのだという想いと重なり、その意味する言葉の両極(生から生へ、あるいは生からやがて来るべき死へ、そして死から生へ)の重みがわけもわからぬまま私の胸を痛く締めつけるのです。

「娘よあなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」 ルカ8:48

同時に、この曲に限らず、私の通う教会で歌われている賛美のかなりの部分が19世紀後半から20世紀前半を生きたアメリカ人たちによって作曲された曲なわけで、そうすると想いはリリアン・ギッシュへ、またはジョン・フォードへといつものごとく向かうのです。

同時に、デュラスより、メカスはどれだけ愉快なのだろうと思ったこと。でも私はきっと圧倒的にデュラスへのシンパシーが強いのだということ。思い出の場所に誰もいないということ―運よく声だけが聞こえてきたとしても!そして想念はバーバラ・ローデンへ。堂々巡り。何も変わっていない。