荻窪、合宿2日目。8時間寝て、臨む。

普通に20分くらい前に到着。すると既に15〜20人ほどの列が。前から三人目のあたりに、筒井武文氏が並んでいる。そして彼と話しているのは山田宏一氏ではなかろうか!初めて肉眼で拝見。杖をついておられた。しっかり前から3番目に並んでいる姿に敬服。売店でコーラなど買う振りをしつつ、さりげなく、列の横、お二人の背後につけて会話を盗み聞きしようとしたが(すごい興味あるのだもの)、全然聞こえず。すぐに会場となり、私も入場。真ん中の真ん中くらいの席。映画を堪能。

ジェーン・バーキンの故障車を一度は無視して去った車が戻ってくる。その車から降りたセルジオ・カステリットは自分がイタリア人であることを忘れているかのように無言で車に処置を施し、無言で去って行く。所変わって、バーキンが山の麓のとある街に到着すると、何故か後方からカステリットも続いて到着。バーキンに先刻の礼を言われると途端に故郷を思い出したのか、彼の口から言葉が洩れだす。バーキンはイタリア人をサーカスに招待。このサーカスは、バーキンの父親が立ち上げた集団だったが、その父親の死に際してバーキンは15年振りに一行に加わっていた。カステリットは彼女に惹かれるにつれ彼女の過去にも興味を抱くようになる。フラッシュバックが彼女の過去を視覚化するようなことはなく、ひたすらクールに、故障/停滞とUターン/逡巡の主題と、長いカット、被写体を追うパン、被写体自身の回転、シーンをリズミカルに繋ぐため、有効に機能するサーカスの短い芸といった運動と編集が作る厳密な形式とが融合して、85分という極端に短い上映時間が、彼女の15年もの、失われた時を、サーカスの舞台に浮上させる。こうして『小さな山のまわりで』を流れる時間は、人の持つ85分という時間にまつわるあらゆる観念を無視して、サーカスの青いテントに光が透き通るように穏やかな血流となる。リヴェットはときおり、可愛らしいジュリー=マリー・パルマンティエなど交えて、次々と立ち現れるゲーム、サーカス、演劇、映画の時空間を、ひたすら微笑みながら、見守ることを許してくれる。

働いている方はともかく(ニートというのは働いている人には何も言えない、少なくとも私はその勇気を持たない)、特に学生諸子は、それが余程の講義でない限り(それに出ないと単位を一つや二つ失うというくらいでは「余程の講義」とは言えない)、そんなものほっぽり出して、リヴェットのまさに「フランス映画の秘宝」と呼ぶべき映画を見に駆けつけることが正当な権利であると悟るべし。えらそうですみません。東京国際映画祭での2回目の上映は、21日の午前11時30分から。まだチケットぴあでは前売りも残っている模様。

帰り際、たまたま出入り口の渋滞で山田氏のすぐ後ろになったので(まあちょっと計算はしたんだけど)、ルカ伝8章でイエスの衣に触れんとする長血をわずらう女さながらに、氏の上着に手の甲で触れる、というか当たる。きっと氏は力が抜けて行くのを内々感じていたに違いない。こんな、スリや痴漢のように背後から一方的に見つめるのでなく、正式にお話を窺いたいとは思うものの、無論そんな願いは叶わず、未練がましく振り返ったりしながら、トコトコと階段を降りて、日比谷線へ。電車が故障すれば・・。