荻窪、合宿3日目。夜まで待機

キアロスタミについて、後で何か書けたらと思ってます。<22日早朝 追記>
全くまとまらないので、覚書を箇条書きのようなかたちで。

大体なんとなく想像していた通りの映画だったのがむしろ不可解で驚く。完成度は非常に高いという印象があるが、その不可解な出来に湧き上がる疑問、疑問、疑問。

カンヌの60周年のオムニバスで確かこんなのをつくっていたと思うが、それの延長線上の映画ということで良いのかな。あれは、どうにも面白いと感じる間もなく終わってしまい、キアロスタミというのはとことん長編の人なんだなとくらいにしか思わなかったが、しっかり長編を用意していたわけだ。

まず驚くべきは、この映画に画面を顔だけで覆ってしまうようなクロースアップが存在しないということだ。これは何を意味するか。かつてリリアン・ギッシュの美しさに魅せられたあまり、カメラが寄ってしまったという、あのグリフィス的欲望が、キアロスタミのこのフィルムからはまったく感じられないということだ。TIFFの作品紹介で「顔、顔、顔」と謳われているはずのこの映画に感情を揺さぶるような顔がない!これはどういう事態なのか。

映画館で見なくてはならないということ。ひとつは映画館という空間で映画館と言う空間についての映画を見ることのスリルを味わえるから。さらに、音と暗さが重要であることと、もうひとつは、写される女優の顔の巨大さがどうも重要な気がするから。どうやら、映画館で映画を見るという行為を再認識するための映画なのかもしれない。同時に、映画館で人称を剥奪された主体が、見られることの意識によって人称を得ることができるかという実験でもある。

周到に選ばれ用意された被写体であることは間違いない。それなのに、そこに人間がいるという気にならない。そして実際にそこには人間がいないのだ。

カメラと被写体との距離がほぼ一定。まさか、最後まで被写体の大きさを一定に保つとは思わなかった。

空間が完全に孤立していて、この女とさっきの女とをつなぐ手掛かりは映画内映画の音と点滅する光、目の中にともる光、ほとんどこの三つだけなのだ。だから、実際、被写体の一人として採用されているフランス女優と、イラン人と思しき美女との間に1000㎞の距離があるかも分からないし、100人以上と云われるあの女性たちのうち一体どれだけの被写体が別のだれかを実際に見たことがあるのかと思いめぐらせてしまう。彼女らが実際何を見ているかも分からず。

150くらい数えてやめてしまったが(こんなバカなことしなきゃよかった!)、とにかく、カットが早いと言わぬまでも遅くない。もっと見たいと思う時に、必ずと言っていいほどカットが入ってしまう。これが何を意味するか。やはり感情移入というのを徹底して排除したいのか。

カットの多さもまた特徴的だ。映画館で映画を見る顔といったらどうしても『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナを思い出してしまうが、そのショットの強度に対抗しようとの意識なんてさらさらないのか、質ではなく(もちろん質が悪いというわけではない)、とにかく量で勝負だと言っているようだ。女の絨毯爆撃。

涙。被写体が明らかに自らが被写体であることを意識しまくっている気がしてならない。このわざとらしいこれみよがしは何を意味するか。特にフランス女優(あの人!)の涙が白々しい。穿った見方をしすぎか?

2年の制作期間の内訳をぜひ知りたい。しかし、わざわざ最初の30分を忍耐して下さいと言わねばならないのはなぜか。

しかしキアロスタミほど映画に対する達観というのか、それが、虚構であること、影にすぎないことををあまりに冷徹に、(いやそれとも暖かくといったほうがいいのか??)自覚してしまっている監督もそうはいないのではないか、「たかが映画じゃないか」のヒッチコックとはまた別の。

それにしてもオープニングクレジットとエンドロールが何とも白々しいというか、不自然と言うか、平凡というか、あれがなければ完璧だったと思うのだが。

以上、まったく支離滅裂。星取りは、好き嫌いが大きく反映されているので、お気になさらずに。

次の上映は、23日、TIFFの作品情報で見る限り、チケットぴあではまだ前売りも残っている様子。何だかんだいって必見だと思います。