神の結婚、ピクニックなど

  • 『ピクニック (Picnic) 』 ジョシュア・ローガン 1955/US/113min

素晴らしいモンテイロについては後日。

決断の3時10分

リメイク版の『3時10分、決断の時』から見てしまったが、こちらの有名なオリジナル版もとても興味深い。2つを並べたらまた一段と興味深い。デイヴィスというよりも、私は主演のグレン・フォードに惹かれる。この人は、ほとんど座って不敵な笑みを浮かべているだけなのに、なんか非常に説得力がある。

グレン・ミラー物語

冒頭に出てくるモノレールみたいの、あれはどこの町のやつだろうか。L.Aのバンカーヒルのエンジェルフライトというのに似ている。ジューン・アリソンは娘時代はちょっときついけど、時代が巡って年相応になってくると魅力的になってくる。アンソニー・マンジェームズ・スチュワートコンビは一連の西部劇の合間にこれを撮っているのね。

『ピクニック』

貨物列車に乗って主人公ハル(ウィリアム・ホールデン)がやって来たのはカンザスの片田舎だ。ダグラス・サークの映画だったら、他者の視線に晒されて、一様に欲求不満と駆け引きを繰り広げるような抑圧された人々が登場するところだが、ジョシュア・ローガンのこの映画ではそういった危険人物は出てこない。が、代わりに、各々のセルフイメージに苛まれて自己嫌悪に陥り、自分との折り合いがまず付いていないような不健康な人間が多数登場することになる。この映画での女たちは、男の存在なくしてはその悪いイメージを払拭できないし男もまた然りである。彼らは他者の視線に晒されることをこそ望んでいる。

旅で空腹の腹を満たそうにも懐具合も空っぽの彼は、そこらの家の庭掃除でもやって小銭を稼ごうと思うところ、尋ねてみた老婦人が無償で朝食をご馳走してくれる。老婦人の話によると、隣人の娘が、偶然にも彼の大学時代の友人アラン(クリフ・ロバートソン)の恋人だという。早速、その隣人に会いに行くと、そこには美人の姉マッジ(キム・ノヴァク)とその妹で賢いミリー(スーザン・ストラスバーグ)がいる。上半身裸で庭仕事をするハルを見たマッジは「あっ」という間もなく、ハルに恋してしまうのが分る。その後、ハルはアランと再会すると、姉妹とも忽ち昵懇の仲になり午後に町が主宰するピクニックに連れだって行くことになる。1年に1度のピクニックでは町で一番の美女を決めるコンテストが開催される。

『ピクニック』では登場人物が孤独な空間を確保することを巡り静かに運動する。妹のミリーが玄関横で読書しながら密かに煙草を吸って1人の時間を楽しもうとすると、上から水が垂れてくる。雨か?と思いきや、それは姉のノヴァクが階上の窓から首を突き出して乾かす髪から滴り落ちてくる水だった。妹には一人になる時間がなかなかないようである。姉と喋っているうちに母親が現れる。かと思うと、続いて、下宿人の学校教師、ローズマリーロザリンド・ラッセル)が話に入ってくる。彼女たちは一様に1人の時間を享受できない存在のようだ。


1人の時間を確保できないということは1人の空間を確保できないということでもあるが、そのためか、彼女たちが、画面を独り占めにしてクロースアップやバストショットを与えられることがほとんどない。必ずや、画面の中には2人以上、それどころか3人、4人、5人と共存しなくてはならない。その均衡を破るのが「スター」のウィリアム・ホールデンであり、彼には映画の冒頭から特権的に画面を独り占めする権利が付与されている。そのホールデンの視線に正当化されて、キム・ノヴァクは初めて画面を占有することに成功する。即ち、彼らが愛を確かめ合うことによって、切り返しショットが用いられ、お互いの視線(視野ともいえる)によって、画面をとりあえず独り占めすることに成功する。画面を独り占めにするとは、1人の空間を占有することであり、1人の空間を占有するとは、1人の時間を獲得するということである。マッジは恋をすることによって初めて誰にも邪魔されない領域を獲得する。

しかし、邪魔者は付きものである。マッジの恋人アラン(ほとんどアランの片思い)が彼らの間に割って入ることによって、切り返しショットによる愛の取引が不可能になった2人は、その後、ピクニックに連れだって行く一団(文房具屋をしている女教師の恋人や冒頭の老婦人も加わる)に吸収されて、6人、7人、8人の中の1人としてしか存在することができなくなる。それどころかピクニック会場では、大勢の群衆の1人としての役割しか与えられない。恋は孤独の中にしかありえず、ピクニックは楽しいが大勢でいる限り恋人同士がやり取りする時間はない。この微妙な時間を日陰で休むこの8人の全体を収めた素晴らしいショットがこのふわふわした空間を一つの空間として美しく捉えている。ハルは、妹ミリーの相手役(ミリーも既にハルに恋している)として一緒に端に座り、その横に女教師のカップル、画面左には老婦人と姉妹の母親、その横に大学の友人、そしてちょうど真ん中に据えられたブランコにマッジが寂しそうに座っている。

ピクニックとブランコと言えば、ジャン・ルノワールの『ピクニック』の美しすぎるブランコのシーンが思い出されるが、あのシーンで男たちの熱い視線を一身に浴びて無心にブランコをただ、ひたすら楽しそうに思いっきり扱いで見せるシルヴィア・バタイユと比べると、ここでのキム・ノヴァクはいかにも寂しい。


しかし、なんとかあの切り返しの愛の交換をしようと図ったハル(彼にはまだ友人の恋人であるマッジに愛を表明しようなどとは思っていないのだが)がブランコに近づいてさりげなく、「Hi」と声を掛ける。するとノヴァクはやっと「Hi」と挨拶を返すが(もちろんこのとき画面にはノヴァクしか写っていない)、その漏れ出た声に愛情が宿っているのを見てとった一同はハッとする。


これはまずいと、自制したホールデンは、直ちにミリーの元へと帰るが、このミリーが訝しげな顔をしたショットが、ここで挿まれる。この映画で画面を占有されることが許されるのは、距離を隔てたところで愛を確認し合うハルとマッジのほかに、もうひとりこのミリーがいるのだ。彼女は、頭は切れるが姉ほどの美貌を持ち合わせていない。初めて恋心を抱いたハルに対しても、片思いの孤独なショットしか示すことができない。(この映画では、主演2人の恋だけでなく、間に入るアランとその父親の関係、ミリーの淡い初恋、それからローズマリーと文房具屋ハワードとの顛末、母親の娘を想う心配と過剰な期待とが実に巧みに描きわけられていて、その手腕も優れている)

さて、夕方になり、恋人たちがめいめい2人同士になるが、ハルは無論、ミリーと一緒だ。しかしここで愛が交わされるような切り返しショットは当然生まれない。2人はバストショットで同時に収まる距離に近付くことは決してない。彼女はハルの顔をスケッチする。そこには彼のクロースアップしか描かれていない。ハルとの切り返しショットを夢見て、絵にまで描いてしまったこの妹の初めての恋心のなんと過酷なことだろうか。夜になり、辺りは色とりどりのランタンで照らされる。町で一番の美女は川上から小舟に乗って下って来るという演出らしい。一同は、誰がクイーンに選ばれたか固唾をのんで見守る。すると暗闇から一隻の小舟がゆらりとやってくる。それは、やはりマッジであった。ここで、マッジとハルは束の間の切り返しショットの中で互いに愛の視線を送って見せるがそれもすぐに群衆に飲みこまれる。だが、ダンスの時間となり、アランが他の婦人に捕まっているすきに、ハルのほうへ向かうとそこには彼と妹が不器用そうに踊りを試みている姿がある。折角のチャンスにミリーはリズムがとれない。そこへ、暗闇をバックにしてノヴァク(マッジというよりも)が魅惑のリズムをとりながら、すべての空間を占有してやってくる。すかさずホールデンに切り返すカメラ。こうして一瞬にしてふたりだけの時間と空間が生まれる。今まで間に距離があることによって切り返しでしか表現されなかった愛は、カメラがひとつのバストショットの中に2人を導きいれることによって、初めて2人に触れ合うことを許す。こうして2人が1つの空間を同時に占有する時間が実現する。黄色や緑のランタンに照らされて、2人は肌を付け合いながら踊る。


ここで、やはり妹の1人のショットが挿まれているのは見逃せない。妹は今にも泣き出しそうな顔で2人を見る他ない。


なんと甘味で悲痛な空間だろうか。もう後戻りできないところまで来た映画の結末がいかなるショットで終わるかはここでは言わないでおこう。

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