この親愛なる8月

  • 『この親愛なる8月 (Aquele Querido Mes de Agosto) 』 ミゲル・ゴメス 2008/PT-FR/147min


『この親愛なる8月』!この珠玉の映画に関する日本語で書かれた文章は赤坂大輔氏の「その時はどこに?」という文章(http://www.ncncine.com/freencncine.html)とか、berceau du cinema, paris(http://pariscine.exblog.jp/i13)さんのブログとかがあるので、私なんかがどうこう書いても仕様がない気もしますが、この映画は、すべての優れた映画がそうであるように、見てしまったら何か書きたくなる、語りたくなる映画であることは間違いないし、何よりこれほど人に、見て見て!と薦めたくなる映画もないと思うので、稚拙でも何か書きます。

上に挙げた2つのサイトにある通り、『この親愛なる8月』はポルトガルの俊英ミゲル・ゴメスの長編第2作で、撮影間近に出資者が他界して予定していた劇映画が頓挫しかけたのだけれど、ええいこなくそと少人数のスタッフだけでとにかくロケ地へ出かける。で、そこにいる人たちを撮って、彼らと対話をする。するとそこに、(必然的に)新たなる映画が立ちあがってくる。そこに住む「実際の」人間のなかには、かくも豊饒な、ドラマが、演技が、映像が、住んでいる。そして侵入者である制作側にもそれぞれのドラマが、演技が、映像があるに違いない。この二つの異質のものの対面、対話が、映画の画面を満たす。だから、ゴメスをはじめとする映画スタッフもまた画面に顔を出す資格を有す。最初は心なしか画面に背中を向けていた被写体との関係も、対話相手の距離が親密になって行くにつれ変わってくる。それを示すように、ドキュメンタリーではあまり許されそうにない、町娘の寝室にカメラが招き入れられると、その部屋の壁に投射された惑星の絵がやはり親密そうに肩を寄せ合っている。

登場人物は絶えず歌っている。歌が彼らを結び付け、彼らの周囲を舞う。そして映画を見る人間をも踊りに誘う。そしてアコーディオンの音色に嬉しくなり飛び跳ねて引き戸の天井に頭をぶつけることをも許してくれる(痛い)。

見るからに重そうな立派な太鼓を抱えているのに、それをなかなか叩かずにえんえんと画面の方を向いて話しかけてくる初老の男を見てほしい。画面へ向かって走る消防車を、また同様にして走るバイクの一団を見てほしい。彼らはひたすら愛想良く画面のこちら側の私たちに対話を仕掛けてくるようではないか。カメラは彼らを挑発するように延々と後退して行く。映画は、消防車との距離をゆるやかに変えながら、ステップを取るカップルのように仲良く向かい合って対話をすることを許してくれる恐らく唯一のメディアだろう。


 

さらに、シーツを血で染めた娘が愛する相手が去るのを見かねて振り返り、静かに涙を流したかと思うやいなや、こみ上げる笑いを抑えることができなくなるその時間のなんと美しいことだろうか。ここでは、その涙の意味を詮索する何らの問いも発生しない。なぜ?という問いをひたすら後にして、ただ、その涙は流されたし、そしてその顔は歯を見せて笑った。その「実際」の姿がそこに誇らしげに存在している。映画の終盤を飾るこのショットはまるで、人間は今や「描かれる」ものではなく、「撮られる」ものだと慎ましく宣言しているようではないか。