突き動かすもの

コロナ疲れならぬABE疲れは間違いなくある。疲れは思考力の低下を招かざるを得ない。人によっては思考とともに情報もシャットアウトしてしまうだろう。それはとても快適な選択であり、同時に政治的退廃だ。その楽さ、消極的デカダンスに身をゆだねれば、気づいたときには自分の暮らしている国が独裁国家となっているかもしれず、またそのときにあらゆる意味で何をも発言することはできないであろう。だからしてこの状況に馴致せしめられることだけは避けなくてはならない。

 

国民を慣らすことで馴らすこと、それが現政権の長年のやり方であるし、たとい現政権が倒れても、これを利用し、過去の失政をも忘失せしめ、まんまと権力の中枢に近づかんとする輩が必ず現れる。否、とっくに現れているのだ。そこに最大級の”ノン”を投げ続け、監視し続けるのはぼくらの役割だ。政治から目をそらすことほどに政治的なふるまいはないのだと、気づいていない人、あるいは気づこうともしない人が多すぎる。

 

権力者は、約束と補償をもたついている間にも、どんどん国民にさまざまを強いる。今日はスーパーに行くのも大概にしろといい、さらには「自主休業に従わなければ」(無論これはことばの矛盾だ)、店舗名などを公表する措置をとるなどと、完全なる脅しにかかってきている。こうなることは容易に想像ができたのだ。だから叫び続けようと言っている。これからも国家権力は(己らの)最高のシナリオしか考えずに行動をしていくだろう。だからぼくらは国家のかわりにこの国の最悪の未来を想像し、想定しなすべきことをなし、発言することを発言しなくてはならない。

 

とても面倒なことだ。非常に疲れる。でもやろう。何が突き動かすのか。愛なのか、正義感なのか?そういうことばもある。だが何にせよこの際、誰のためでもなかろう。シンプルに言って、国などなくなったところでどうだってよい。家族も「わたし」もいずれいなくなるだろう。何かをなしたという記憶も記録も薄れ、霞み、やがて水の流れがしずかに岩を削り、穿ち、細かく砕いていくように消えてゆくだろう。地球そのものもいずれは消えてしまうのだ。だが、今はあり続ける。今は永遠だ。永遠の今のために、または、今の永遠を真実で照らすために。

 

十分な理由(motivation)ではないか。