何だかんだで、『特出しヒモ天国』と『女っ気なし』は見に行くことができました。案外食い合わせの悪くない2本立てでした。
『特出しヒモ天国』
火事で焼け死んだ仲間の葬式でストリップすることの行為に唐突さはなくむしろ約束事を果たす覚悟のようなものとそれをも超えた踊るんだ、唄うんだ、生きているんだからという底抜けに純粋な運動神経に最高位の崇高さを見ることのできる稀有な(幸福な)映画。その(幸福な)場所に目下敵はいなくて、いるのはただ、友だちだけで、彼や彼女たちによるハダカの弔いは溝口の『女優須磨子の恋』の舞台、『Wの悲劇』の薬師丸ひろ子の舞台、あまちゃんお座敷列車の舞台、『スプリング・ブレイカーズ』の彼女たちの「舞台」にまで連想の自由を拡張させて、ただ生きていることの眩しさ、走りたさ、駆け抜けたさ、飛び跳ねたさ、服を捨ててなにもかもすてて飛び込みたさを身体の奥のほうから感じさせてくれるものではないか。そうはさせまいという自由の敵が映画の最後に彼女たちストリッパーを一斉検挙し、護送車で運ばれようとも、彼女たちの目は死んではいないし、これからも生き続けるんだ。

そしてやがて来る者・・・ぼんやりとした、それ。それにすら立ち向かう勇気を!欲することをやめないように、やめようとすることを始める前に次の映画『女っ気なし』に移るのだ。

『女っ気なし』
キノハウス3Fユーロスペースで上映されたこちらは活気のあった2Fとは打って変わって静かなもので、がらがらの席に身を埋めて、短編『遭難者』に続く中編『女っ気なし』の上映が始まる。『遭難者』で男の見せる涙はあまりに独善的でマッチョ(=めめしさ)すぎる涙で、いわゆる「ずるい涙」で、こういう男の涙を前にして女はすぐに車に乗って逃げればいいと思うのに何かきれいな景色の広がる草原か何かに寝そべって半ば呆れたように半ば男をいとおしむように微笑む。この女優に対するカメラの真摯な態度に拍手。本当に美しく素敵な女性として見事にフレームに収まっていました。そして別れ。それはもう描くことも残っていないとばかりに映画は止まり、また次の映画がはじまる。それが『女っ気なし』である。われらが主人公はバカンス客の接待をしている。今年の客は美人だが中年の母親とそのかわいらしい娘。シチュエーションは整っているのだ。あとはどんなことが起ころうとロメールでもドゥミでもウディ・アレンでも登場しても結局は同じところにいきつくのだ。だから結果は大事ではない。ラストショットは目に見えている。
図式的にはそうなのだ。出口なし。どう発展しても魅力的な展開なんて期待できない。でもふたりは出会って惹かれあって同情しあって、キスをして、ベッドを共にするのだ。そして当然のように次の朝がやってきてふたりは別れる。さよならも云わずしてである。そこで見せる女の涙は本当に乾いている。ブレッソンはこうやって男と女をつくりだしたに違いない。ただ女性たちは『あの夏の子供たち』の子供たちのように涙を流しながらも前を見据えてはいなかったか?少なくともこの映画のラストショットはふたりの親娘のお互いにもたれあい頼りあう姿を映して終わるのである。ごくあたりまえの当たり前には撮れないフランス映画がまた一つ増えたと、乾杯したい気持ちでぼくはいっぱいです。