殺人者たち

  • 『殺しのテクニック (TECHNICA DI UN OMICIDIO)』 フランク・シャノン 1966年 イタリア (97分) |**|

 何気なく、すぐに見られる映画のラインアップを眺めていたら、「殺」という字の付いた邦題の映画がたくさんあるではないか。では、いっそまとめて見てしまえと、思ったのです。愛と死とか、エロスとタナトスとかいうのではなくて、映画にはもっと俗な「快楽」と「殺し」が似合う。と、したり顔でつまらないことを言っても仕様がないが、実際、映画データベースのallcinema(あまり信頼できないデータベースだが)で「殺」とだけ記して検索したら引っかかった映画タイトル(テレビ作品も含む)が1417件もあった。では、と他にも多そうな字を検索してみる。すると「人」が938件、「生」が59件、「性」が617、「男」667、「女」793、「死」863、「風」671、「血」645、「銃」358、「恋」908件、とこんな感じになった。「涙」とか「時」とか、「空」とか、「君」、「私」、「心」なども似たような結果で、並べてみると、ちょっと驚くほど「殺」の多さが際立っている。
 わたしはなにもこんな軽い思いつきで、何かを解明した気になったり、何かを証明しようと思っているわけではないが、必ずしも原題がkillとかmurderとかいった言葉を含んでいない映画の題名に「殺」という字を当てたくなるような性格、あるいは安易に題名に「殺し」のことばを、剥き出しで置いてしまいたくなるような、はしたなさが映画にはある気がしてならない。

 映画における初めての殺人は、『大列車強盗』だろうか?詳しいことは分からないし、映画における主題論的殺しの作用がどうのとか、、映画における概念としての「殺し」をヒッチコック的な「サスペンス」との類比やその相乗効果を語り、映画の説話の構造を明かしたいのでもないし、そもそもその力もないのだが、ともあれ、私がここで言いたいのは、映画が必要としているのは、やはり「死」ではなく「殺し」だということだ。
 人間、みんな日々老いて、それは時間に少しずつ毒殺されているようなものだと思うが、ひとつの映画の寿命=上映時間は80年はもちろんなく、大体2時間前後なわけで、そういうなかで人が如何に死ぬか。なぜ死ぬかではなく、如何に死ぬか。それを見せるのが映画における「殺し」であり、それは、例えば、『ローラ殺人事件』で映画の始まる前から死んでいるジーン・ティアニーが突如として美しく復活し、また命を危険にさらすとき、あるいは、冒頭から決定付けられている、(これがデビュー作の)バート・ランカスターの死を契機に物語が広がっていく『殺人者』で、彼のかつて在った生が語られ、アルバート・デッカーの死で物語が終わりを迎えるとき、さらには、『邪魔者は殺せ』での雪中にはたと倒れる恋人たちの儚げな死が語られるとき、『私は殺される』で、バーバラ・スタンウィックが運命付けられた死を予見するとき、『殺しのテクニック』で次々と銃弾に倒れる悪漢たちの死を目前にしたとき、観客は、彼らの「死」ではなくそこに至るまでの「殺し」の豊穣な変奏を見ているにすぎない。実に映画は「殺し」を生きているのだ。彼らはなぜ死んだのか、と言えば、殺されたから、と言うほかない。「死」の前に常に「殺し」がある。その「死」が仮に自然死であっても、彼等は映画を流れる時(あるいは作者<<作者がどうのとかいうとまた話がややこしくなるし、手に余るからここではそっとしておいて触れない》)に殺されたのだ。だから、殺しは、すべての映画の開始とともに既に行われ、あらゆるところに張り巡らされ、その決定的な瞬間を今か今かと伺っているのだ。運動としての、過程としての、生としての「殺し」と、単なる結果としての、停止としての、死としての「死」。
 だから、映画の中での殺人者も被害者も、全力を挙げて生としての「殺し」を演出するし、「殺」の字を厚顔無恥にも題名として、掲げてその正体を晒してしまった1417の映画群は、映画にとって何ら特別な存在ではなく、単に、恥じらいも知らぬ乙女のようなものなのであーる。

ついつい思いつきでこんなにも分かりにくく出鱈目な文章を書いてしまったが、これから真剣に考えていきたい主題ではある。

今日は、さらに青山真治の『レイクサイドマーダーケース』を見て、「殺」の字からの華麗なる逸脱を図り、そのまま横滑りして大島渚の『絞死刑』を見て「死」の文字へと浮気してみようかとも思ったのだが、さすがに疲れたからやめておく。

これらの美女たちはすべてYouTubeで見られる。『殺しのテクニック』のみシネフィルイマジカ。