お花畑と知性について

イースター当日の夜中に地震があり、2020年とちょっと前に思いを馳せる。それは憎悪とニヒリズムと底のない悲しみを打ち破る出来事だったと4人の記者により言葉や視点を変え、また時間を経てもなお無数の記者により想像力豊かに幾度も幾度も記録されている。

 

”復活”とは何なのか。産まれて死ぬさだめにある人間なら、それを思考することに何も損はないはずのものである。

 

それは今はさておき、ぼくらは戦後ではおそらく死が一番近いところまで近づいてきている状態を生きている。信じられぬ言動をとる政治家に追随することなかれ主義の国民、それを断罪する国民、日本は今、分裂状態を生きている。明日には死ぬかもしれない。今日にも死ぬかもしれない。あるいはもう死んでいるのかもしれない。そういうすべてのことを考えたり話し合ったりすることは無駄ではない。

 

難しいことばはいらない。「脳内お花畑」と言って人とお花畑を愚弄する人間がいる。お花畑でいいではないか。それどころかお花畑は脳内にとどまらない。美しさの下に、生物連鎖の蠢く世界があることを、まさに脳内がお花畑であったからこそデヴィット・リンチは撮り得たのではないか?クリシェで人を攻撃するのは、思考に対する怠慢だ。そして正しいことばを選べないのは、明快に心がないか性格がひねくれているか、頭が悪いかのどれかだろう。

 

時に、言葉遊びは暴力だ。言葉で対話をするべきときに言葉で遊んだうえで論点をずらしたり、言葉で単純に勝負を仕掛けたりすることは臆病者のすることだ。それを知性とは呼ばない。

知性は言葉を用いて約束をする。

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)

これが知性だ。