100のベクトル

国会前へ。検察庁法改正の講義デモをソーシャルディスタンスを取りながらのサイレントのスタンディングでやるという呼びかけにやはり応えたかった。静かな夜で、空気が澄んでいた。

 

マスクの形状から、人の鼻と口の位置関係についてなんとなく考える。どうして顔のそこにあるのか、どうして近くにあるのか、どうしてみな同じ配置をしているのか。

 

製品の形状は使用の合理性、利便性、用途と目的に合わせてつくられる。こうして物質は形作られる。ことばの場合はどうだろうか。人との関係の場合はどうだろうか。そして国やその制度はどうだろうか。マスクひとつで政治について考えを巡らすこともできるのだ。それはマスク2枚配布というまったく政治的とは言いがたい政治の決断とはほど遠くよほど真っ当に政治的である。

 

政治的といえば、服を選ぶ行為もまた政治的である。様式と美学はそれぞれの時代区分、地域区分によって大きく相互に発展してきたのが人間の歴史というものだろう。

 

大正デモクラシーの和装から洋装ということもそうだし、戦時下の軍服と水平帽ともんぺ姿だってそうだろう。ロックスターは音とファッションで権力にNOをつきつけた。マルジェラは凝り固まった服の役割を解体することで制服と化したファッションという政党から服を解き放った。これらすべてが政治的でなくてなんであろうか。

 

ゼメキス『フライト』とコッポラ『ゴッドファーザー』をそれぞれ再見。どちらも誠実さと嘘についての考察として素晴らしく。論文書けるんじゃないかな。ただ、それより単純に両者ともに撮影があらためて素晴らしかった。『フライト』に関しては演技がコッポラに関しては演出がすばらしく、そういう意味ではコッポラは美学の人で、ゼメキスはより感情、感覚からのアプローチが得意な人なのだなと、別に特別にこの二人を比較する必然性は感じないが、単純に2本を立て続けに見て思った。ただ、この2パターンにアメリカ映画は大きくは分類されるかもしれないとは思う。いくつものすばらしい例外はもちろん認めつつ。