わたしの光よ

速さとはなんであろう。このとらえがたいもの。

 

100メートル走のようなもの。つまり距離と時間によって決められる速さ。一見すると絶対的な速さ。ただし、定められたルールの中でだけ許された速さ。

 

そのルールにレースの範疇をこえてもらい、ぼくらは車を、電車を飛行機を走らせ飛ばせる。それも時間と距離とに守られた限定的に絶対的な速さ。

 

光。この絶対から抜け出せるルール無視のナイスガイ。光にとって速さは興味の範疇の外にある。光にとっては距離と時間だけが彼が乗り越えなくてはならないもの。

 

そしてこの光は時間が生み出した。同時に概念としての時間は光が生み出した。

 

ただそれよりもっと先、はるか昔にふたりは出会っている。時間が親で光が子どもだ。時間は容積をもったあらゆる物質に宿る。複数の時間の誕生だ。時間は偏在する。

 

それぞれの沈みゆく時間は光を放った。放たれた光の粒は数多に尾を描きながら、いくつもの距離を開発しながら移動し、ついにその宿主を見つける。

 

わたしの虹彩に当たった光の粒は、かつての親である原始の時間に作られたように、新たな時間の概念をわたしに差し出す。それは彼の金色に輝く尾ひれで、わたしはこの尾ひれを距離と呼んだ。

 

そうしてわたしはいま、どうやら複数の時間のなかのどれかひとつの時間にとくに拘泥しつつ生きている。生き始めたわたしは新しい時間とともに歩み、そして新しい光を放ってこれからもずっと生きるだろう。

 

時間が足りないとわたしが言うとき、わたしは光を放っていない。時間を形を変えた距離に乗せて運ぶこと、その時間はそのとき光となり運ばれる。この光は文字だ。

 

文字は滞留した時間となり、誰かの目に触れたとたん爆発的な光源となる。

 

わたしはこうやってまたひとつひとつ丁寧によい光の爆弾を形作っていく。明日という時間を光が運んでくる。それはまた誰かの仕事なのだろう。お速よう。といったほうがいいのかもしれない。

 

すべてが照らされ、複数の時間と複数の光がさまざまな距離のなかで最高の仕事をしますように。そう祈って、わたしの光よ、今日はもうおやすみなさい。