夜よ夜 または デジタル文化私論序章

10年くらい前、たぶん地震のあたりからヤフコメというものを結構見続けている。その前の時代、たとえば911のときは21世紀のはじまりとともにテレビがマスメディアの中心である最後の役割を果たしてその役割を終えた瞬間だったと後から思うわけで、それが高校生のときだった。わたしはまだ携帯電話をもっておらず、PCに詳しい友人が自身のブログでネット掲示板のようなものを始めていたのがかなり物珍しい時代だった。おそらく世代としてはわたしより10歳ほど上の世代の理系のオタクが最初のネット世代ということになるのではと思う。

 

テレビは未だに醜態を晒しつつも生き残っており、映像の世紀ともいわれる20世紀の亡霊をひたすらにひきずり続けているが、民主党政権の圧勝のあたりまではたしかにテレビにまだ幾分か力が残っていたかもしれない。自民党が名実ともにぶっ壊れ果てたころからテレビは形骸でしかなくなった。ただ、そのあとの311で日本人は駅でも、家でもとりあえず繰り返し流され続ける津波の映像をひたすら見続け、そしてその感想をネットに書いていた。私も当時はすでにブログを始めていたはずで、そのころには、フェイスブックツイッターもかなり一般的に普及していた。むしろSNSの果たす役割というものをテレビでも頻繁に報道するようになっていたと記憶している。ザッカーバーグを描いたフィンチャーの映画『ソーシャルネットワーク』も2010年の映画だ。基本的にわたしはすべてが遅いので、iphoneを手にしたのもそのころからだったかもしれない。

 

それでヤフコメに戻るが、これは何かの役に立つかもしれないと見続けていたのは、自民がふたたび与党に戻ったあと、自民の政権批判の記事、主に朝日が出す記事になるのだが、それはコメント制限がかかっているためコメントが載らない。逆に政権寄りの記事にはたくさんのコメントが寄せられる。そもそも政権批判の記事はヤフーのトップページにあまり載らないのだが、たまに載っても朝日なのでコメントがなかったりする。そのかなりのバイアスに注目していた時期がった。その後、原発、安保法制、そして現在のツイッター主導の政権批判と単発デモ、コロナ、そしてBLMの時代、ヤフコメも抑えきれなくなってきているのか、安倍が降りてももう別にという空気になっているのかかなり政権批判が載るようになってきているのだが、その内容が前からひどかったとはいえ年々、中身がロボ(AI)なんじゃないかというくらいに文章がテンプレ化してきている、というか人間よりAIのほうがとっくに物事を考える力を得てきてしまっているのではないかとさえ思える酷さであり、たとえば今日の都内12人新規感染などは、もはや10人台ではニュースにならない風潮にこの2週間ほどの傾向でなってきているのだが、なってもそこに垂れ下がるコメントがあまりに独創性のかけらもない文章ばかり(経済が大事、コロナと共生する時代、我慢、油断するな、夜の街、デモ行くなのどれか)でいよいよもってバイアスとか偏向報道とかどころでもなくヤフコメももう見なくてはいいかなと思い始めている。

 

フェイスブックに関してはわたしは一度もアカウントを作ったことがなく、10年前からブログ派、ツイッター派のシネフィルの中にはフェイスブックは品がないという言説が結構まかり通っていて、その品とは何かというのはよくわからないのだが、おそらく、本名と顔写真を公開し、出会い系の走りみたいなことを、あくまで表向きまじめにやる感じを品のなさととりあえず評したのだろう。匿名性を許容されたところで本名を名乗り放つ言説がいちばん品のある行為であると、これは新聞や雑誌の文化からくるものであるだろうし、映画作家やアニメ作家、漫画家的な発想でもある。品とはここでは、物質であるところの人間というものの物質性へのこだわりのことかと思われる。匿名を禁じることでデジタルの市民権を得るフェイスブックにそれは品がないということにたしかになる。漠然と私もそう感じていたけれど、もはやツイッターにもその残滓のかけらくらいしか残っていなく、一番愚直にデジタルの中にアナログの物質性(写真・文字)を持ち込もうとしているのはインスタなのではと、一通りインスタ映えというものもなくなりただ生活を記録するようなものになってきているそれの現状を見て思う。そのまともさもそろそろ飽きられてきているようだが。

 

デジタル画面から抜け出す、あるいはそれと現実がつながるのがデモであるとわたしは考えている。これはまた別の長い話になりそうだ。